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ロータリークラブ会員は地域のボランティアとして、助けを必要としている人々を支援しています。

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2018年8月29日 ゲストスピーチ「福島愛育園様」

会長あいさつ                           会長 大出 隆秀
皆様、こんにちは。
 今週に入ってからは、しのぎやすい日々が続いておりますが、季節の変わり目です。体調管理には、十分ご留意ください。
 本日、福島愛育園の長谷川園長先生には、お忙しいところ、当クラブにお越しいただきまして、ありがとうございます。そして、只今は、感謝状をいただきましてありがとうございます。クラブを代表いたしまして、心より感謝を申し上げます。
 また、先月の訪問の際には、心のこもったお出迎えをいただきありがとうございました。備品贈呈式後、園児さんたちからの「ちょっとはにかんだ、かわいらしい感謝の言葉」が、とても印象に残っております。贈呈させていただいた品物が、施設の子供たちにとって、快適な生活を送るために少しでも役立てていただけたなら幸いです。「現在の福島愛育園の運営や子供たちの様子について」は、後ほど、詳しくお話しいただきたいと思います。
 ここで、私から、今日、卓話をいただく長谷川園長先生をご紹介させていただきます。先生は、昭和56年に職員として第1歩を踏み出されました。福島愛育園とのご縁は、ボランティアとして、ギターを弾きに、時々、園を訪れていたことがきっかけとお聞きしています。将来は、音楽家になりたいという夢もお持ちだったそうです。
 先生は、調理師として採用され、当時は、児童90人、職員27人の食事作りを担当されていました。夏休みは、朝・昼・晩と毎食117人分の食事を作り、食後は山のような皿を洗い、とくに、土曜日には、中学生が弁当を持っていくため、午前2時半に出勤して、弁当を作っておられたそうです。今のご時世では、考えられないほどの激務であったろうと想像されます。13年後に事務職に異動され、平成29年4月に園長にご就任されました。「無駄な仕事は何一つない、すべてが関連している」「魂のない処遇は意味がない」などの先輩園長たちの言葉に励まされて、今日まで職務を務められたそうです。
 今日は、園の創立者でもある瓜生岩子刀自の提唱された園の理念や施設の子供たちの様子をお伺いし、私たちのこれからのロータリークラブの奉仕活動に役立てていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 さて、先週の納涼家族例会は、楽しんでいただけたでしょうか。大澤新睦委員長の企画によるギターの生演奏、原澤委員のご配慮による素晴らしいお食事、親睦委員会の皆様には大変お世話になりました。ありがとうございました。10月には、長浜東ロータリークラブの訪問がありますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 また、先週のロータリークラブの地区行事についてですが、25日の土曜日には、福島県農業総合センターにて、会員増強・拡大・ロータリー情報委員会セミナーが開催されました。当クラブより、8名が参加いたしました。
 セミナーは、平井義郎ガバナーによる開会点鐘とごあいさつ、箭内一典会員増強・拡大・ロータリー情報委員会委員長による講師・出席役員の紹介、佐藤龍史広報・IT・運営担当による司会、そして、丹野増強委員会委員長による会員増強の成功事例の発表、と地区ロータリー活動における私たちクラブメンバーの活躍と存在感が強く感じられた研修会でした。詳細につきましては、後日、丹野増強委員長よりご報告をいただきたいと思いますが、基調講演では、「会員基盤の向上と戦略計画」と題して、国際ロータリー第1ゾーン ロータリーコーディネーター、函館五稜郭ロータリークラブの酒井正人様から、基調講演をいただきました。講演は、講師の一方通行的なスピーチではなく、出席会員との対話形式、会員参加型の研修のため、会員増強に対しての他クラブの会員さん方のさまざまな意見を聞くことができました。
 酒井先生の話の中では、女性会員の入会のためのヒント、若い会員さんの入会のためのヒント、として、①会員増強委員長を女性の方に担当していただくことや、②女性会員の出席しやすい時間帯に例会の開催時間を変更すること、③クラブ内クラブとしての衛星クラブの結成や、④スカイプによる例会開催、等、過去の慣例にとらわれない新しい発想によるクラブ運営が重要であるとの話がとても印象的でした。酒井先生は、現状を打破するためには、時代の流れに対応した「発想の転換」が、必要であるということを強調されていたように思います。
 平井ガバナー年度、次年度の芳賀ガバナー年度、30周年の成功に向けて、クラブ会員全員が、今まで以上に会員増強の意識を高めていかなければならないと思います。会員の皆様のご協力をどうぞよろしくお願いいたします。
児童養護施設福島愛育園様からの感謝状贈呈
 去る7月25日に、地区補助金事業として許可のあった「 社会福祉法人福島愛育園(児童養護施設)への備品贈呈プロジェクト」に基づき、寄贈品を贈呈してまいりました。8月1日例会にて、菅野浩司奉仕プロジェクト委員会並びに奉仕委員会委員長より、報告があった通りです。
 本日は、その御礼として、福島愛育園の長谷川園長様が、感謝状をお持ちになられました。長谷川園長様より、大出会長に、感謝状が授与されます。
   

児童養護施設福島愛育園園長 
長谷川文夫様より感謝状の授与

   
   
大出会長より
長谷川文夫様へ御礼
 報告事項                       ガバナーエレクト 芳賀 裕 
 9月22日のエレクト事務所開設披露式へのご参加よろしくお願いいたします。
 また、9月3日よりGETSが始まります。いよいよ本格的な準備のスタートです。
 以上、よろしく。
「福島愛育園の運営と子どもたちについて」         福島愛育園園長 長谷川 文夫様 
 明治26年2月16日、本県の生んだ社会福祉事業の先覚者瓜生岩子刀自の主唱により、福島鳳鳴会を設立し、事務所を福島市大町の到岸寺内に置き、孤児貧児の養育を開始したことに始まります。(詳細は後述)
 明治期には、舟場町長楽寺、五月町康善寺、清明町常光寺と施設が移り、大正期に院舎を花園町に移し、昭和37年に、現在の田沢躑躅ヶ森に園舎を新築移転しました。
 ゆったりと自然の中で、子どもたちを育てたいとの願いで、移転を決意したのですが、地域の理解を得るために、自転車で伏拝の急峻な坂道を何度も往復し、たいへん苦労をされ、また、資金の調達においても言い尽くせない苦労があったと聞いております。山林の開拓は職員で行い、キャンプ場をつくることから始め、ボーイスカウトの活動拠点ともなりました。
 そんなことから、施設の子どもたちにもボーイスカウトやガールスカウトに入団してもらって、活動をしております。
 原発事故があって、そうした施設は、まだ放射線量の高いところもあり、活動時間を制限している状況です。
 現在の園舎は、平成8年に、日本船舶振興会の助成金や園友会の寄付などを募り、県や市からも利子補給をいただき、20年償却で建て替えたものです。
 今年、創立125周年を迎えますが、改築して22年、30年後に建て替えすべく準備を進めているところです。
 入所してくる子どもたちですが、昔ですと生活苦の子どもたちがほとんどでしたが、今は虐待を受けて入所してくる子どもたちが、3分の2を占めています。全国に600ほど同様の施設があり、約3万人の子どもたちが入所していますが、やはり3分の2は被虐児です。それ以外は、発達障害の子どもたちですが、虐待を受けて発達障害になったのか?発達障害ゆえに虐待を受けたのか?どちらが先かはわかりませんが、そうした子どもが、被虐児童の約半数となっています。
 そうした子どもたちが社会に受け入れられるようにするために、専門職(心理専門職員・個別対応職員・家庭支援専門相談員・看護師)の職員を採用したり、関係機関との連携などを図っているところです。
 今年から、新たに里親支援専門相談員を採用しました。国の方針で、児童養護施設に入る前に、里親にお願いしようとなっているからで、今里親の数を増やしているところです。
 そういったことから、児童養護施設に入所している子どもも将来的には里親にお願いするようにしたいと思っており、そのパイプ役として里親支援専門相談員を配置したところです。
 子どもたちには、何の責任もありません。
 なぜ、私は施設に入らなければならなかったのか?と小学校5~6年生になると必ず疑問に思う子どもたちがいます。その時に、子どもたちが納得できる説明、理由を傷つけないように話さなければなりません。なぜここにいなければならないのか?早く家に帰りたいと子どもは言いますが、家に帰れる環境が整えば、帰すのですが、それができません。できないことを赤裸々に言うと親の非難になってしまいます。親も子どもも傷つかないように、早く家に帰る夢を見ながら、ここでの生活を過ごしてもらうということを理解してもらうのは、容易なことではありません。
 そうしたコンプレックスは、学校生活の場で発散されることが少なくありません。学校にもご迷惑をかけています。自虐的な行為で自分を傷つける子どももいて、命の危険さえあります。児童相談所、学校、施設で話し合うのですが、なかなか意見の一致をみるのも難しい状況です。
 家に帰れる状況になる子どもたちもおりますが、中学生や高校生になってからという子が多く、子どもの成長に大事な期間、親御さんから離れて暮らしているので、帰ってからも難しいです。やはり小学校高学年あたりには、家に戻れるようにしてあげたいと思っています。
 昨年、短大に入学した子どもが一人おります。この子は、将来、児童養護施設の保育士になりたいと言って、高校生の時にアルバイトで学費をためておりました。今、施設に働く職員の希望の星になっています。
 子どもは国の宝である
  子どもは良い環境の中で育つ
   我々職員は誰のために居るのかを問う
 今後ともご理解、ご支援のほどよろしくお願いします。



【福島愛育園の概要】
 所在地 :福島市田沢字騨蜀ヶ森16の2
 創 立 :明治26年2月16日創立者瓜生岩子
 経営主体:社会福祉法人福島愛育園(児童福祉法による児童養護施設)
 法人役員:理事長吉岡棟憲常務理事・園長長谷川文夫
      理事6名監事2名評議員7名
 規  模:土地71,489㎡(うち野営場約33,000㎡)
建物2,998㎡(管理棟、児童棟、給食棟、職員宿舎など14棟)
 事  業:予期できない災害や事故、あるいは離婚や病気などさまざまな家庭の事情で家族が養育することのできない子どもたちに人間としての諸権利を保障し、健全に養育する児童福祉施設
 定  員:77名(本園65名、地域小規模養護施設12名)
 現  員:74名(男39名、女35名)
     3歳児未満(0名)・年少児(4名・三育幼稚園)・蓬莱小学校(27名)・森合小学校(1名)・蓬莱中学校(19名)・第四中学校(2名)・渡利中学校(2名)・福島西高(1名)・福島北高(1名)・明成高校(5名)・中央高校(2名)・二本松工業高(2名)・市立福島養護学校(3名)・大笹生支援(1名)・相馬農業飯舘(1名)・県立工業高校(1名)・福島南高(1名)・桜の聖母短期大学(1名)
 職  員:39名
  園長(1名)・児童指導員・保育士(15名)・看護師(2名)・副園長/基幹的・職員(1名)・家庭支援専門相談員(1名)・事務員(3名)・心理専門職員(1名)・里親支援専門相談員(1名)・栄養士(4名)・個別対応職員(1名)・宿直専門員(1名)・嘱託医(1名)
《わたりの家・森合の家》
  児童指導員/保育士(4名)・家事援助員(1名) 宿直専門員(2名)

社会福祉・児童福祉の先駆者 瓜生 岩子(1829~1897年)
          -あいづ人物伝より-
会津のナイチンゲール
 戊辰戦争により郷土が荒廃し尽くした会津で、社会活動に一生をささげた女性がいました。岩は、熱意と情熱、その無私の人柄により貧民から華族にまで愛された人でした。
艱難(かんなん)辛苦に耐えて
 岩は、江戸時代後期の文政12年(1829)、耶麻郡熱塩村(現在の熱塩加納村)に油商であった父、渡邊利左衛門と母りゑの長女として生まれました。9歳のとき、父を亡くしたうえ、家が炎上したため、母の実家(温泉業「山形屋」)に戻り瓜生の姓を名乗りました。渡邊家の再興を図る母の勧めで、会津藩の御典医をしていた叔父の山内春瓏(しゅんろう)宅に行儀見習いに出、後の慈善活動の基礎となる仏教と堕胎防止の啓蒙思想を身につけます。
 17歳で婿養子を迎え、若松の横三日町に呉服店を開きます。一男一女に恵まれた矢先、夫が喀血(かっけつ)。その後7年の間に叔父の死、番頭の金の持ち逃げ、夫の他界が続き、店を閉めて母の実家の熱塩に戻ります。翌年には、母も亡くすという失意の時期を過ごしました。
活動の軌跡
 子どもたちが一人前になると、岩は社会児童福祉に力を入れていきます。戊辰戦争では、敵味方の区別なく負傷兵を看護し、避難民の救援に尽くしました。明治になると、喜多方に幼学校を設立し、読み書きそろばんなどを教えました。
 小学校令が発布されると幼学校を閉鎖して上京し、貧民救済事業を学び、会津での施設開設に奔走します。しかし、官営の施設としては認可されず、それでも廃寺を借りて孤児や行路病者などの世話をしました。
 明治19年に、陳情のため県庁のある福島の長楽寺境内に移り住み、その努力が実って4年後、県の許可を得て孤児のための福島救育所を設立するに至ります。その後救養会所を全国に設置するよう、第1回帝国議会に請願書を提出します。また、渋沢栄一に招かれ東京市養育院の幼童世話掛長を8ヵ月ほど務めました。当時、皇后陛下の御召により宮中に伺ったとき、素肌、素足・木綿の服で拝謁したことは、岩の飾らぬ人柄を感じさせるエピソードとして残されています。
女性初の藍綬褒章(らんじゅほうしょう)
 会津に戻ってからは、若松・喜多方・坂下の3ヵ所に貧児養育施設を設置し、また貧困者のための医療施設を若松に開設しました。一方で、明治21年の磐梯山大噴火、24年の濃尾地震などにも難民の救出を行い、その資金捻出のため飴のかすを利用したかす餅やパンを考案し売出します。これらの活動により、女性初の藍綬褒章を授与されます。明治30年4月19日、福島に帰った岩は、無理がたたり、心臓病で多くの人に惜しまれながら永眠しました。
   
   
   
   
   
   


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